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宝満寺跡(5) 

ようやく宝満寺跡の最終回です。
最後は宝満寺の本尊にまつわる二つの伝説を紹介します。
そしてそれにまつわる遺物、またそれらから見えてくる歴史も併せて紹介したいと思います。
今回は学術色の濃い内容なので、読むと眠くなってしまうかもしれません。
しかし面白いと思います。



宝満寺の本尊は如意輪観でした。
それに関して三国名勝図会には次のようにあります。


「元応二年(1320)、本尊観音を西大寺より齎(もたら)し来て、本堂に安置す。即今の本尊是なり。興正菩薩(叡尊)の開眼といひ伝ふ。」


この部分には二つの注釈がついています。
簡単に訳してみます。


注①
「観音蓮台の下に元応二年(1320)庚申九月十九日、造功畢、南都於西大寺開眼、願主光信・左衛門入道・長教と記してある。
按ずるに、願主の三人である。光信は原田入道、左衛門入道は仲津川勘解由左衛門、長教についての姓氏の詳細は不明。」


注②
「按ずるにこの本尊の作者運慶は、建久年間(1190~1198)の人である。また興正菩薩叡尊は正応三年(1290)に入寂している。建久から正応まではおよそ百年である。また、元応二年は正応三年から三十一年後にあたる。時代があまりにも大きく違う。これはこの本尊が興正菩薩の開眼ではない証拠である。
運慶作の霊仏を元応二年に修理し、蓮台などを改めて作ったのを、寺の僧が誤って付会したのであろう。」



簡単に言うと、「宝満寺の本尊である如意輪観音は時代にいろいろとおかしい部分があるが、とにかく運慶作である」ということです。
これに関する遺物が宝満寺に残されています。



DSC_1704_201702261747057f4.jpg
住持墓群へと向かう階段を上ってすぐに分かれ道が現れます。
ここを階段のない左の道へ進みます。

DSC_1702.jpg
細い道を奥へと向かいます。

DSC_1700_20170226174645e71.jpg
道の先に墓塔群が見えてきました。


DSC_1678.jpg
到着です。
ここにとある物があります。


DSC_1684.jpg
「運慶の墓」
そう、ここには大仏師運慶の墓と伝わる大きな五輪塔があるのです。

DSC_1685_20170226174708266.jpg
横が欠けています。

これについて三国名勝図会に記述があるので、簡単に訳してみます。


運慶墓
「当寺山中にある。寺説によると、当寺の本尊如意輪観音は運慶の作である。観音を当寺へ安置する際この観音と離れるのを我慢できなかったため運慶も当寺に下り、この場所で亡くなった。そのため墓があるのだという。運慶は仏師定朝から六代目の孫で、建久八年に東大寺の脇侍(奈良の大仏の脇侍)を作り、その名を高めた。当寺の観音の安置は元応二年で建久から百数年である。これは誤りである。」


如意輪観音と離れたくないので一緒に宝満寺にやってきて、ここで亡くなったとあります。
京、鎌倉を中心に造仏の仕事をして歩いた運慶なので、あながち嘘の話でない気がしなくもないです。

運慶は京の八条高倉に父である康慶の菩提を弔うために「地蔵十輪院」というお寺を建てたそうです。
その後十輪院は現在の六波羅蜜寺内に移転したらしいため、六波羅蜜寺に運慶の墓塔や位牌もあったと考えられますが現存していません。

「運慶墓」として言い伝えと墓塔が残されているのは宝満寺だけかもしれません。


運慶の横にもう一つ案内板のついた五輪塔があります。
DSC_1682.jpg
「光信の墓」
如意輪観音の願主の一人である光信の墓塔と言われています。
台座部分に「元徳二年(1330) 沙弥光信」と刻まれているそうですが、今回は確認できませんでした。

研究によると、この五輪塔は畿内からここへ持ってこられた物である可能性があるとのことです。
根拠は畿内にある、とある様式の五輪塔と形が非常によく似ているからだそうです。
その様式は「西大寺様式」。
宝満寺の本尊に迎えられる前、如意輪観音は西大寺にあったとされています。
これは偶然でしょうか。
いずれにせよ非常に興味深く、面白いです。



そしてこの二人の五輪塔の背後にもう一基、見るべき墓塔があります。
DSC_1686.jpg
「千亀女の墓」
ひっそりと祀られています。

この千亀女に関しての昔話があります。
簡単に紹介します。


 むかしむかし、志布志に、千亀女(せんかめじょ)という美人がいました。
その美しさに人々は「千亀女は志布志一の美人だ」ともてはやします。
 ある年、宝満寺に観音さまが本尊として迎え入れられました。
その観音様のはとても美しく、町は観音様の評判で持ちきりになりました。
「千亀女もあの観音様の美しさにはかなわない」
その評判を聞いた千亀女の母は、大変くやしがりました。
千亀女も声をあげて泣き出します。
 そこで二人は夜明け前の宝満寺に忍び込み、観音様を外に引きずり出しました。
そして松葉に火をつけ、観音様の顔をいぶし始めたのです。
黒煙で観音様の顔は真っ黒になってしまいました。
「これでまた志布志一美しいのは千亀女だ」
と二人は満足げに帰り、床に就きました。
 ところが朝起きると、二人は驚愕します。
なんと美しい千亀女の顔が黒いブツブツだらけになっているではありませんか。
それに加えて左足が大きくに膨れあがっているのです。
 その後千亀女は足だけでも隠そうと、地面にひきずる程の長い着物を着るようになりました。
 「観音様の罰が当たったのだ」と町中で噂となり、観音様は増々信仰を集めるようになったといいます。



というような話です。
昔話の主人公の墓塔があるのも珍しい気がします。

DSC_1692.jpg
戒名は摩耗して判読不能。

そしてこの墓塔の側面に気になる部分があります。
DSC_1688.jpg
写真の写し方が悪く、かなり見づらいです。
分かる部分だけ書くと、

「~判読不能一行~
南北朝皇 千亀媛
南胡妙南舞~

楡井○○」

この文によると、この墓塔は千亀女の墓塔で間違いなさそうです。
「媛」が使われているので、実際に美しかったのでしょう。

気になるのは「南北朝」、そして「楡井○○」という部分です。
南北朝期、志布志には南朝側の武将である「楡井頼仲」という人物がいました。
同じく志布志にある大慈寺の開基で、北朝との戦に敗れ、正平十二年(1357)に志布志で自害したとされています。
楡井氏はこの頼仲の死により途絶えたと言われています。

千亀女が実在し、楡井氏と関係があることは間違いなさそうです。
敗戦の将である頼仲の関係者であったため、このような不名誉な話が残されたのかもしれません。

そしてこの文が本当だとすれば、やはり如意輪観音が宝満寺に迎え入れられたのは1300年代であるという事になります。
三国名勝図会に詳細が書かれ、いろいろな証拠もあります。
ですから宝満寺には本当に運慶作の如意輪観音像があったと考えてよいと思います。

観音像は廃仏毀釈により「行方不明」となっています。
足利直義奉納の仏舎利といったお寺にとって大切な物は残されているのですから、この像もどこかに必ずあると私は信じています。


この墓塔自体は江戸期の物だと思われます。


DSC_1693.jpg
反対側にも何か文章が刻まれているのですが、全く読めません。
拓本にすると何とか読めるかもしれません。

この墓塔はもっと詳しく調べた方がよいと思います。
少しでも詳細が分かるよう、もう一度行ってみます。

とりあえずこれからは「千亀女(せんかめじょ)」ではなく「千亀媛(せんかめひめ)」と呼んであげた方がいいかもしれないですね。



DSC_1691.jpg
千亀女の墓塔の真後ろに、木に飲み込まれた墓塔があります。
なんだか不気味です。




以上が宝満寺跡です。
長くなってしまい、申し訳ありませんでした。
宝満寺は見どころがいっぱいです。
一度と言わず、何度も訪れたくなる。
それだけ雰囲気の良い、また文化的価値の高い場所です。

広い駐車場完備で、近くには物産館もあります。
志布志に行った際には必ず訪れるべき場所です。

今回もご覧いただきありがとうございました。
歴史の好きな人には楽しんでもらえたかと思います。

「宝満寺公園」と調べればすぐに出てくるので、地図は載せません。



秘山密教院宝満寺




DSC_1696_201702261747115c8.jpg

category: 寺院跡

thread: 史跡・神社・仏閣

janre: 写真

tag: 志布志市 
Posted on 2017/03/04 Sat. 22:28  edit  |  tb: 0   cm: 0  

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