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常潤院跡(2)
引き続き常潤院跡です。

石橋のある方向へ進みます。

途中、石灯籠があります。
地頭二階堂主計行且の寄進。
天明七年(1787)建立。

右側は空き地になっています。
ここに常潤院があったと思われます。
数年前にここから溝の遺構が見つかっています。

何かが並んでいます。

「大乗妙典一千部塔」
島津忠良が何かを願い寄進した物です。

右から
「大願主藤氏忠良
大乗妙典一千部
天文廿四年(1555)」

傍らに石造物の残欠が転がっています。

そしてこれが座禅石の背後に見えた石橋です。

古い物かは分かりませんが、良い雰囲気の苔むした石橋です。

石橋の先に、ある石碑が建てられています。

「日新公御影堂遺跡碑」
大正四年(1915)建立。
ここには御影堂というお堂が建っていました。
三国名勝図会には次のようにあります。
「○梅岳君御影堂
常潤院にあり。梅岳君天資任明英叡にして、其功社稷を興し、其徳封彊に溢る。
大中公御中興の業に於る、周文王あるが如し。且今に至て英霊赫然として、人民敬畏せざる者なし。
故に遠近の人、参詣する者日に絶えず。」
この碑には樺山資紀による文が刻まれています。
内容をかなり簡単に訳して紹介します。
「この地は常潤院の跡である。
島津忠良公が剃髪し、愚谷軒日新斎と名乗り庵を結んだのが常潤院の始まりである。
天文年間に日新公は自らの像を彫り、安置した。
これがいわゆる御影堂である。
明治に至り、本藩の寺院毀(こわ)しにより像は竹田神社で祀ることとなり、常潤院は毀された。
それ以降長い間村人たちは恐れ、常潤院跡は湮滅し痕跡すらわからなくなった。
大正乙卯(四年)の秋、この譜文を石に刻む。
海軍大将正二位 樺山資紀」
このような内容です。
人々が廃仏毀釈で寺院を破壊した後、祟りか何かを恐れ、常潤院跡を跡形もなく破壊したとあります。
「人々が恐れていた」とはっきりと書かれているのは珍しいです。
このような碑文を書くということは、樺山資紀は廃仏毀釈の事をよく思っていなかった可能性があります。
薩摩藩出身の大物がこのような物を残してくれているのがわかり、少し安心しました。
石碑の周りを礎石が囲んでいます。




御影堂時代の物なのか、石碑の覆堂の物なのかはわかりません。
礎石の配置を見た感じでは御影堂の礎石ではないかと思います。
三国名勝図会にある常潤院の絵図の中に、礎石の配置と向きが一致する建物があるので、その遺構であると信じたいです。


石碑の横にも灯籠など多くの石造物が並びます。
以上が常潤院跡です。
五回にわたって日新寺跡・常潤院跡を紹介しました。
現在は竹田神社となり、どちらも大切に管理されています。
ここまでの規模で様々なものが残っている寺院跡は県内にもほとんどありません。
それだけ島津忠良が非常に多くの人々に尊敬されていたということなのでしょう。
また多くの遺品も残されており、それらは加世田郷土資料館で見ることができます。
よい場所です。
神社にだけお参りし、忠良墓所の常潤院までは行かない方が多いようです。
もったいないので、是非常潤院までお参りしてほしいですね。
県内でも有名な神社なだけあり、駐車場も完備です。
鹿児島であまり出会うことのできない雰囲気を味わいに、是非行ってほしいと思います。


石橋のある方向へ進みます。

途中、石灯籠があります。
地頭二階堂主計行且の寄進。
天明七年(1787)建立。

右側は空き地になっています。
ここに常潤院があったと思われます。
数年前にここから溝の遺構が見つかっています。

何かが並んでいます。

「大乗妙典一千部塔」
島津忠良が何かを願い寄進した物です。

右から
「大願主藤氏忠良
大乗妙典一千部
天文廿四年(1555)」

傍らに石造物の残欠が転がっています。

そしてこれが座禅石の背後に見えた石橋です。

古い物かは分かりませんが、良い雰囲気の苔むした石橋です。

石橋の先に、ある石碑が建てられています。

「日新公御影堂遺跡碑」
大正四年(1915)建立。
ここには御影堂というお堂が建っていました。
三国名勝図会には次のようにあります。
「○梅岳君御影堂
常潤院にあり。梅岳君天資任明英叡にして、其功社稷を興し、其徳封彊に溢る。
大中公御中興の業に於る、周文王あるが如し。且今に至て英霊赫然として、人民敬畏せざる者なし。
故に遠近の人、参詣する者日に絶えず。」
この碑には樺山資紀による文が刻まれています。
内容をかなり簡単に訳して紹介します。
「この地は常潤院の跡である。
島津忠良公が剃髪し、愚谷軒日新斎と名乗り庵を結んだのが常潤院の始まりである。
天文年間に日新公は自らの像を彫り、安置した。
これがいわゆる御影堂である。
明治に至り、本藩の寺院毀(こわ)しにより像は竹田神社で祀ることとなり、常潤院は毀された。
それ以降長い間村人たちは恐れ、常潤院跡は湮滅し痕跡すらわからなくなった。
大正乙卯(四年)の秋、この譜文を石に刻む。
海軍大将正二位 樺山資紀」
このような内容です。
人々が廃仏毀釈で寺院を破壊した後、祟りか何かを恐れ、常潤院跡を跡形もなく破壊したとあります。
「人々が恐れていた」とはっきりと書かれているのは珍しいです。
このような碑文を書くということは、樺山資紀は廃仏毀釈の事をよく思っていなかった可能性があります。
薩摩藩出身の大物がこのような物を残してくれているのがわかり、少し安心しました。
石碑の周りを礎石が囲んでいます。




御影堂時代の物なのか、石碑の覆堂の物なのかはわかりません。
礎石の配置を見た感じでは御影堂の礎石ではないかと思います。
三国名勝図会にある常潤院の絵図の中に、礎石の配置と向きが一致する建物があるので、その遺構であると信じたいです。


石碑の横にも灯籠など多くの石造物が並びます。
以上が常潤院跡です。
五回にわたって日新寺跡・常潤院跡を紹介しました。
現在は竹田神社となり、どちらも大切に管理されています。
ここまでの規模で様々なものが残っている寺院跡は県内にもほとんどありません。
それだけ島津忠良が非常に多くの人々に尊敬されていたということなのでしょう。
また多くの遺品も残されており、それらは加世田郷土資料館で見ることができます。
よい場所です。
神社にだけお参りし、忠良墓所の常潤院までは行かない方が多いようです。
もったいないので、是非常潤院までお参りしてほしいですね。
県内でも有名な神社なだけあり、駐車場も完備です。
鹿児島であまり出会うことのできない雰囲気を味わいに、是非行ってほしいと思います。


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