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龍盛寺跡(2) 

お待たせしました。
今回は龍盛寺跡の二回目です。

前回は薩摩川内市の案内板通りに龍盛寺跡を紹介しました。
しかし最後に書いたように、これにはちょっとした問題点があります。
その問題点が何なのかを今回話していこうと思います。


現在龍盛寺跡とされている場所はここです。
龍盛寺跡?
赤い点の場所です。
祁答院町大村にあります。

実はこれが問題なのです。
『三国名勝図会』によると龍盛寺は「地頭館(現・大軣小学校)から北東へ一里三十三町ほど」の場所で「中津川村」にあると書かれています。
また延享年間(1744~1748)に成立した『延享度曹洞宗寺院本末牒』にも「龍盛寺 中津川村」とあります。
しかし赤い点があるのは地頭館(現・大軣小学校)から南西の方向の「大村」です。

場所が全く違う。

これは大きな問題です。
誤差の範囲内ならわかるのですが、あまりに違う。

案内板によると平成八年(1996)の調査によりこの場所が龍盛寺跡とされたようです。
それまでは「石原在某寺跡」と言われていました。
『祁答院町誌』には「慶長以降の石塔が見つからないので、この頃に廃寺となったか」とあります。
しかし龍盛寺は廃仏毀釈まで存在していました。

ではそれまではどこが龍盛寺跡とされていたか。
『薩摩町郷土誌』によると、「中津川」の弓之尾にある墓地が寺跡とされていたようです。
というわけで行ってみました。


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ここが以前まで龍盛寺跡されていたの中津川弓之尾の墓地です。

DSC_4205.jpg
一基だけ住持墓がありました。
しかし風化しすぎて文字は判読不能。


墓地の整理が行われたようで、この一角には住持墓以外に古い墓塔がほとんどありません。
DSC_4210.jpg
奥に見える墓地にも行ってみます。


DSC_4224.jpg
ありました。
墓地整理の際に廃棄された墓塔です。

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「○元○山○意忠居士」
文化四年(1807)没。
「居士」が横書きになっている珍しい墓塔です。


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江戸期の墓塔が並んでいます。

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「道仁禅定門」
享保二年(1717)没。

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「雲山宗白禅定門」
寛保○年(1741~1744)没。

なぜこの四基だけが綺麗に並べられているかは不明。
また郷土誌にはこの墓地に六地蔵塔があったと書かれていますが、現存していないようです。


そしてこの墓地のすぐ近くにとある神社があります。
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それがここ。

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大石神社です。
祭神は島津歳久。
本格的な神社になったのは明治以降のようで、当時は島津歳久の供養塔だけがあったようです。
『三国名勝図会』記載があったので、適当に訳したものを載せます。


「歳久の石塔(地頭館から北北東へ一里二十六町ほど):中津川村にある。島津左衛門督歳久の霊を供養する。およそ五、六年に一回村中の住人が石塔の前で舞を興行し、大念仏踊りという。当邑の壮観で、見る人が非常に多い。」


「大念仏踊り」は現在も続いており、毎年九月十八日に「金吾様踊り」と名を変え奉納されています。
金吾様は島津歳久の別称。
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当日はこの社殿前の広場で踊りが行われます。

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本殿。
内部に御神体として「歳久の石塔」が安置されています。
近くのお宅には歳久の位牌も現存しているそうです。


この本殿の横に、ある石造物があります。
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嘉元の三重石塔。

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嘉元二年(1304)の銘がある石塔です。

DSC_8842.jpg
この部分が欠損しています。

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梵字。

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「嘉元二」
実はこの石塔のことが『三国名勝図会』の龍盛寺の項に書かれています。


「三重の古石塔:当寺の門前にある。嘉元二年(1304)甲辰十一月等の文字が刻まれている。むかし鶴田に大願寺があり、この石塔はその寺から移してきたものという(大願寺は足利大将軍義満の時の建立である。嘉元二年は将軍の生年の約五十四年前である。ということはこの石塔は大願寺創建以前からその地にあったのを、ここに移してきたものであろう。もしくは大願寺の創建は嘉元より前で、大将軍義満の建立は再興であったのかもしれない。なお鶴田大願寺遺蹟の薬師堂の注を参考にすべし)。」


龍盛寺が廃寺となった際にここへ移設されたと思われます。
なお龍盛寺跡と大石神社の位置関係はこのような感じです。
龍盛寺跡?2

以上のことから江戸初期から廃仏毀釈まで龍盛寺があったのはこの墓地である可能性が高そうです。

前回紹介した「石原在某寺跡」の祠内の墨書きに「享保二十年(1735)に廃壊していた祠を修理した」というようなことが書かれていたそうです。
もし龍盛寺がずっとあの場所にあったのならば祠が廃壊するでしょうか。
ただ「龍盛寺」という文字が見えたそうなので、やはり原文を確認してみたいですね。

これは私の予想にすぎませんが、「石原在某寺跡」は龍盛寺の旧地だったのではないでしょうか。
再興、移設の話は伝わっていませんがその可能性が高いと思います。
ですから現在案内板のある場所が龍盛寺跡なのは間違いないでしょうが、江戸初期以降から廃寺までの場所が明らかに違うため少し問題があります。

案内版に「ここは旧地である」と書き加えてほしいですが、そのような細かい違いにお金を使ってもらうわけにもいかない。
なのでこのブログをご覧になっていただいている方々にだけでもこの事実を知ってもらえればと思います。



弓之尾の龍盛寺跡の近くにもう一つ紹介するものがあります。
DSC_4195.jpg

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「弓之尾の殿どん」と呼ばれる三重石塔です。

DSC_4192.jpg
嘉元の三重石塔よりもどっしりとしています。

DSC_4182.jpg
梵字には墨が。
台座部分に建立年号らしき字が彫られていたのですが、破損が激しく判読不能でした。

周囲は綺麗に維持管理されており、弓之尾集落の方々に大切にされているのがわかります。



今回は以上です。
本日もご覧いただきありがとうございました。
古寺跡巡りをしていると、たまにこのような謎が出てきます。
それが解決した時の爽快感はたまりません。

どちらの龍盛寺跡もよい場所です。
大村周辺を散策する際には旧龍盛寺跡を、そして九月十九日の金吾様踊りを見物する際には弓之尾の龍盛寺跡周辺も訪れてみてください。


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あいらびゅーFM(89.1MHz)に不定期出演中!
次回は4月26日(金)の13時からです!

category: 寺院跡

Posted on 2019/04/12 Fri. 22:47  edit  |  tb: 0   cm: 0  

龍盛寺跡(1) 

久しぶりの更新です。
書くネタはあるのですが、なかなか書けずにいました。

今回は薩摩川内市祁答院町にある楊谷山龍盛寺跡です。
永興寺末曹洞宗。
本尊釈迦如来。
開山儀油徳大和尚。
中興開山宝(実)盛真大和尚。

現在は「龍盛寺跡と石塔群」の名で史跡となっています。


DSC_8623.jpg
入口。
奥に案内板が見えます。

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現在は竹林になっています。

DSC_8587.jpg
定期的に掃除をされているようで、荒れていません。
この整備された道を進んだ先に古石塔が置かれています。

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随分と古そうな五輪塔群が現れました。

DSC_8612.jpg
詳細が分かるものは一つもありません。
案内板に「文明十七年(1485)豊州家忠廉が大村に侵攻した際の激戦で、戦死した両軍戦士の供養のために建てられた寺と思われる。」とあるので、戦没者の供養塔でしょうか。


DSC_8567.jpg
奥に祠があり、美しい宝篋印塔が二基置かれています。
八角形の塔身がここの特徴です。


DSC_8563.jpg
五輪塔群より一段高い場所に住持墓群が並びます。

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整然と。
遺物の状態や雰囲気も申し分なし。
これぞ鹿児島の古寺跡という風景です。

注目すべき住持墓は三つ。
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「前住永平当山五世龍雲興和尚」
天文五年(1536)寂。

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「前住惣持一千百六十八世徳巌碩和尚大禅師」
永禄三年(1560)寂。

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「当山六世寛冲鶴和尚」
元亀二年(1571)寂。
入寂年は墨書きです。

文字、材質、加工技術全てが素晴らしい住持墓です。
およそ四百五十年前の技術は、現在の技術のはるか上をいっていたのかもしれません。


住持墓以外に宝篋印塔もあります。
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「歓○妙○」
弘治三年(1557)没。
これも塔身が八角です。
年号は墨書き。

DSC_8581.jpg
仏像が彫られている石塔もあります。


ここには見る場所がもう一つあります。
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案内版から左へ進みます。

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祠が現れました。
祠の中にさらに小さな祠があります。

DSC_8592.jpg
写真ではよくわかりませんが、この祠の壁に墨で文が書かれています。
現在は赤外線撮影をしなければ読めないくらいの状態です。

二十年ほど前の調査によると、この祠には馬頭観音が安置されていたそうです。
またこの祠が享保二十年(1735)に補修されたであろうことも分かりました。
そしてこの文中に「龍盛寺」の名が見えたらしく、それまで「石原在某寺跡」と呼ばれていたこの場所が「龍盛寺跡」であったことが
分かったようです。

面白そうなので、具体的にどのようなことが書かれているのかを確認したいですね。


祠の周囲にも様々な遺物があります。
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小さな祠があり、内部に五輪塔が置かれています。

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「一道秀律○」
慶長十年(1605)没(墨書き)。

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その手前にも石塔があり、これも墨書きです。

八角の宝篋印塔と祠、そして墨書きの古石塔もこの古寺跡の特徴です。


DSC_8600.jpg
馬頭観音の祠の上部に円相があります。
梵字が彫られていたのかもしれませんが詳細は不明。
まだまだ何か出てきそうので、この岩壁は要再調査だと思います。


今回もご覧いただきありがとうございます。
遺物の紹介は以上です。

今回この古寺跡を、設置されている案内板通り「龍盛寺跡」として紹介しました。
しかし、実はこれには大きな問題・疑問があるのです。
一体何が問題・疑問なのか。
それは次回です。


龍盛寺跡?



あいらびゅーFM(89.1MHz)に不定期出演中!
次回の出演は3月29日13:00です!

category: 寺院跡

Posted on 2019/03/23 Sat. 20:56  edit  |  tb: 0   cm: 0